提供型生殖補助医療について

日本におけるAIDの歴史(1)発祥と匿名時代

日本におけるAIDを用いた出産は1949年(昭和24年)8月、慶應病院で報告されました。当時のメディアは「ここに文字通り人造人間の誕生が実現し、当の夫婦は非常な喜びに包まれ・・・(中略)・・・新しい希望者が続々押しかけ、避妊大流行とはまさに逆を行く現象を呈しているが、一方この実験のことが伝わると同じ医学者仲間はもちろん法律家・評論家・宗教家などの各界に大きなショックを与え賛否両論入り乱れるセンセーションを巻き起こすにいたった。」と記しています。

AID出生児が生まれてすぐ、家族を社会の枠組みにどう受け入れるかが問題となりました。慶應大学法学部教授の小池隆一は1952年に、「適当なる制限を附して、人工授精自体の合法性を承認するとともに、人工授精による子どもに対して嫡出子の身分を与えることが、むしろ合理的な取り扱い方ではないか」と立場を明らかにし、同時にAIDという新しい家族関係を想定していない法体系の中でAIDの是非や子どもの法的な立場を議論するのは無理なので新立法が望ましいことを述べています。また彼はAIDについて、「多少の無理は承知の上で」民法772条の「婚姻期間中に生まれた子は、妻の配偶者の子と推定する」と言ういわゆる嫡出推定の規定を、AIDで生まれた子どもに当てはめるという法解釈を試みました。

AIDはその後、全国各地の病院で施行されました。ただ社会もAIDという治療があることは一応認めつつも、概ねは「どうしても子どもがほしい夫婦が自分たちの責任で、こっそりするならかまわない」という姿勢をとっていたため、時に「今からでもやめたほうがよい」と言う意見も見られます。1967年にはアメリカで、AIDで父親になった男性が離婚後に嫡出否認の訴えを起こし、子どもの養育費を支払う必要はないという判決を勝ち取ったことが新聞に紹介され、新聞紙上であらためてAID施行の是非について論争も行われています。また1984年には、スウェーデンでAIDの「匿名性廃止」が国会で可決されたとの速報が紹介されたましたが、「子どもが自己の出自を知る権利」については大きく取り上げられることはなく、その後も出自を知る権利に関して議論が行なわれた形跡はありません。

このような社会の雰囲気のなかで、医師はこの治療をあえて宣伝することはなく、治療を受ける夫婦も、たとえ医師に言われなくても「個人的なことであり、(子どものためにも)誰にも言わない」ということが社会からの無言の圧力であったこともあって、他の誰にも、また子どもにも治療の事実を秘密にし続けました。

1990年以前は、AIDはなんとなく後ろめたい治療だが、暗黙のうちに、夫婦の秘密として、そっと行って行くのは仕方がない、というのがメディア・諸学会を含めた社会の大多数の人たちの考え方であったと思われます。

(文責:久慈直昭)

ⅰ「人工授精児生まる!」。家庭朝日、昭和24年9月10日
ⅱ小池隆一。人工授精とその法律問題。法学研究(法学研究会)25(8):1(487)-13(499)、1952br ⅲ小池隆一。人工授精の法律問題。私法7:2-17
ⅳ「標的 人工授精」。朝日新聞(夕刊)昭和43年11月25日
ⅴ「思春期迎える人工授精児~その将来をめぐって」。朝日新聞(夕刊)昭和42年10月25日
ⅵ「論争 人工授精」。朝日新聞(朝刊)昭和42年11月16日
ⅶ「人工授精児に父を知る権利」。朝日新聞(朝刊)昭和59年12月19日

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